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ICF 2018 都市戦略セッション

東京のアイデンティティ:時間の連続性と創造力がもたらす未来の東京らしさ

2018年10月18日(木)開催
六本木アカデミーヒルズ タワーホール
登壇者
竹中 平蔵
モデレーター竹中 平蔵
東洋大学 教授
慶應義塾大学 名誉教授
森記念財団 都市戦略研究所 所長
アカデミーヒルズ 理事長
デービッド・アトキンソン
特別講演デービッド・アトキンソン
株式会社小西美術工藝社
代表取締役社長
伊藤 毅
パネリスト伊藤 毅
建築史家
青山学院大学 教授
黒田 涼
パネリスト黒田 涼
作家
江戸歩き案内人
東 利恵
パネリスト東 利恵
建築家
東環境・建築研究所
代表取締役
市川 宏雄
パネリスト市川 宏雄
明治大学 名誉教授
帝京大学 特任教授
森記念財団 理事

はじめに

竹中

今年の都市戦略セッションでは、事前に計3回に渡るプレセミナーを開催し、東京のアイデンティティについて議論を重ねてきた。本日はそれを踏まえて、未来の東京らしさに関する発展的な議論を、プレセミナー登壇者によるリレートーク、特別講演、パネルディスカッションの三部構成で行いたい。セッション開始にあたり、まずは事務局より「東京の発展の歴史と東京らしさ」について発表してもらう。

東京のアイデンティティ:時間の連続性と創造力がもたらす未来の東京らしさ

事務局

図1は、1890年(明治23年)の東京の人口密度と鉄道の路線図である。1867年に明治新政府が樹立され、その数年後に、新橋-横浜間の鉄道が開通した。当時は、現在の山手線の内側あたりと横浜ぐらいにしか人口の集中が見られない。1910年頃になると、四方八方に鉄道が延び始め、それ伴い、銚子や佐倉、千葉、大宮、川越、熊谷、八王子、横須賀など、鉄道路線の分岐点に人口が集積し始める。1930年には東京と横浜の圏域がつながり始め、1950年には千葉市や、神奈川の横須賀、平塚のほうまで伸びている。その後、多摩ニュータウンの開発によって、1980年には八王子の方まで圏域が拡がっている。現在の人口密度分布と比べると、東京は1890年から2015年までのわずか125年の間にものすごいスピードで圏域を拡大してきたことがわかる。

図1:1890年(明治23年)の東京の人口密度と鉄道の路線図

このような発展を遂げた東京が、現在どのような「東京らしさ」を有しているかについて、写真とキーワードという2つの視点から分析してみた。まず、写真から見た「東京らしさ」については、全3回のプレセミナー参加者から頂いた「東京らしい」と思う写真を分類・分析した(図2)。圧倒的に多かったのはフィジカルなランドマークとしての東京タワーである。また、地下鉄の風景、首都高の重層的な都市景観などのインフラ関連の写真も多い。他には、日本的なデザインや、食、寺社仏閣、祭りや路地の写真などもある。Old & Newと題した写真群には、花火とスカイツリー、増上寺と東京タワー、また近代的なビルの中にある鳥居といった、古いものと新しいもののコントラストが捉えられている。

次に、キーワードから見た「東京らしさ」についてだが、これは、プレセミナーと本日のセッション参加者の方々に投稿していただいたキーワードの集計結果である。回答として最も多いのは「東京タワー」である。他には「高層ビル」、「人が多い」、「人ごみ」、「まちがきれい」、「何でもある」、「清潔」、「日本」などのキーワードが挙げられている。以前、森記念財団が海外の人を対象に実施した「都市のイメージ調査」では、「東京」と聞いて思い浮かぶキーワードの中で最も多かったものは、「CROWDED(混雑している)」であった。東京の人が抱く東京のイメージと、海外の人が抱くイメージは、類似している点と相違している点の両方があることが分かった。

リレートーク1

伊藤

今回のテーマである「アイデンティティ」という言葉は、「インフラ」や「モニュメント」と同様、日本語に訳すのが難しい言葉の1つである。アイデンティティには、個人や組織、都市や国家など、様々なスケールがあり、その中で都市については、歴史の中にアイデンティティが潜んでおり、時間の経過とともにそれが形成されていく。東京については、江戸~近代~現代という歴史の変遷の中で考えなくてはならない。

江戸については、中世に始まり、城下町ができて拡大する時代、そして幕末の江戸というように都市が巨大化するなかで、各時代に象徴的な場所が生み出されてきた。明治に入ると江戸から東京へと変化し、城下町だった江戸が、東京という近代都市に読み替かえられていった。一番大きな読み替えは、江戸城が皇居になった点である。それに伴い、江戸城の周りにある武家地は官庁や軍用地などの公共用地に変化していった。その外側に建つ寺は、芝公園、浅草公園、上野公園など5つの公園へと変貌する。東京は、江戸の都市構造を継承しながら近代都市へと読み替えられていった。

戦後の東京において一番大きな変化があったのは1960年代である。高度経済成長を謳歌し、建築分野ではアーバンデザイン=都市のデザインが一世を風靡した。全国的にも総合開発計画などが始まり、開発が進んだ一方、破壊も多くおこなわれ、いくつかの重要な建物がこの時代に消失した。これらを再建する動きが最近進んでいる。

伊藤 毅

現代の東京の姿を見ていくと、東京という一体的な都市が段々といくつかの場所に島状に分かれていく、すなわち都市の島嶼化が顕著になってきているように思う。日本橋や銀座、六本木、青山、渋谷といった場所が強い磁力を示し、それぞれが島状に海に浮かぶような形となっている。いわば1つのアーキペラゴ状態である。東京のアイデンティティは決して単一ではなく複数性を持っていて、東京自体は複数のアイデンティティを束ねるような都市になりつつある。そのような東京をこれから全体としてどのようにしていくかが今後のまちづくりの大きなテーマになるだろう。その島と島をつなぐ場所は、道かもしれないしオープンスペースかもしれない。いわば東京群島をつなぐアイデアが求められる。そして、何よりも建築がきちんとつくられて、東京の中に根づいていくことを期待している。

リレートーク2

黒田

私は、普段は東京のまちの中に隠れた歴史の痕跡を案内している。東京は近代的かつ未来的な都市であるという感覚にとらわれている人は多いと思うが、実際に街を歩くと、徳川家康が開府してから築かれた400年の歴史が高層ビル群の狭間に隠れていることがわかる。

例えば、飯田橋の西口駅前には大きな石壁があるが、かつてここには江戸城外堀の牛込門という門があった。石壁は巨大なやぐら門の石垣の名残である。反対側の交番の上にも石垣があり、そこには「阿波守」と書いてある。牛込門という石垣は、江戸の初めに徳島藩蜂須賀家阿波守がつくった石垣で、その印が残っている。このような江戸城の痕跡は実は東京中に存在する。

他には、秋葉原の岩本町の歩道上に「もやい石」と言う石がある。これは、船を岸に着ける際に綱を渡すための石であった。神田川はかつて江戸の流通、舟運の大動脈として使われた河川であるが、そこに入ってくる船を停めるために「もやい石」が設置されたのだが、街の変遷とともに石だけが取り残された。この石が、かつてこの地域が水運として栄えた歴史を宿しており、こうした面白いものが東京には残っている。

総武線の車窓から見える水辺空間は、江戸城の外堀である。明治時代に総武線をつくる際、外堀の脇を埋めて、四谷から浅草橋あたりまで鉄道を開通させた。1964年の東京オリンピック直前につくられた首都高も、江戸時代の堀割を埋めたり、堀割の上に高架をつくることで、工期を守って完成した。

黒田 涼

銀座上空から皇居方面を眺めた航空写真を見ると、中央に鉄道があり、その左側には大きなビルが集積したエリアがある。ここは江戸時代の江戸城内にあたる。江戸城内には大きな大名屋敷があったが、明治になると、その敷地を利用して官庁やオフィスビルが建った。一方、銀座は、江戸から明治、大正にかけて商業地区で、小さい敷地で店が隣接した状態が今日まで続いているため、空から見るとビルが密集している。この銀座から京橋、日本橋というのが、徳川家康が定めた商業地区だ。

高層ビルが林立したとしても、なかなか歴史の記憶や痕跡は街から消えないものである。そうした歴史の積み重ねが今日の東京のまちを規定していると思う。街の成り立ちの経緯を知ることで、未来のまちづくりの進め方が明確になるのではないかと思う。

未来にむけた方向性のひとつとして私が考えているのが、江戸城天守再建である。この計画には外向きと内向きの2つの意味がある。外向きに関しては、日本文化の最高技術の結晶ともいうべき木造建築をつくることで、観光戦略の核になると考えている。内向きについては、地方の城下町に住んでいる人は、城を見上げて育ち、そこに誇りをもつ感覚を理解していただけると思うが、それを東京の人々にも共有してもらいたいということである。そのような建築物が東京には欠けているので、ぜひとも復元したいと考えている。

リレートーク3

「星のや」シリーズの中で、最初に手掛けた「星のや軽井沢」では、いかにして記憶や印象に残る空間をつくるかを念頭においてデザインした。結果として「谷の集落」と名付けた「星のや軽井沢」が誕生した。「星のや京都」では、和室のあり方について考える機会を得た。現在では、自宅に畳の和室が残っている方は少ないと思うが、そういう人たちや、あるいは海外の人に、いかにして和室での暮らし方を伝えるかを考えた。また、沖縄から八重山諸島に1時間ほど飛んだところにある竹富島には、沖縄の伝統的家屋が残っており、集落全体が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。「星のや竹富島」では、この小さな島に新たな集落をつくるつもりで、そこの環境に敬意を払いながら空間をつくっていくことを考えた。

これらのプロジェクトを進めるなかで、素材と技を後世に残すことを考えるようになった。京都を訪れると、お寺などで「京唐紙(からかみ)」を頻繁に目にするが、「京唐紙」の刷師は、当時は京都に1人しか残っていなかった。現在は若手人材の育成が進みつつあるが、職人技の習得には長い年月がかかる。京唐紙の職人が激減した主な理由は、襖(ふすま)に使われなくなったためである。新素材の襖紙が台頭し、高価な唐紙は使われなくなっていく。残したい技術というのは、使わないと消失してしまう。

東 利恵

和室に関しては、おそらく戦後のある時代に、和室の様式の限定的な定義をもって、進化をとめてしまった。しかし遡れば、和室はもともと平安時代に板の間に置き畳で始まり、それ以来、いろいろな時代を経て進化をしてきた。我々現代人もその進化を考え直していかなければならない。「星野や京都」では、畳の上で座るためのソファを開発するなど、畳の上での新しいくつろぎ方を考えた。様式を残そうとするのではなく、何かを進化させる目的をもつ。先立つのは形あるものではなく、目に映らないものだ。どのような体験をしてもらうかを考え、それに形を与えていくことを考えている。

大手町にある「星のや東京」は、東京には代表的な旅館がないということから、結果的に旅館にすることが決まった。そこで、どのように旅館をつくるべきか考えた時、ただ和室を並べていくのではなく、靴を脱いでくつろいでもらうということを考えた。1階に約5メートルの天井高の玄関をつくり、左側には手が届く範囲が靴箱になってるインテリアを配した。宿泊客が下に降りてくると、スタッフが魔法のようにその人の履物を出す。それを通じて昔の旅館にあった下足番を体験してもらうのだ。同時に、裸足になったくつろぎ方を体験してもらうことで、日本のくつろぎ方を知ってもらい、考えてもらうきっかけをつくっている。客室の広さや間取りについてはグローバルチェーンの客室と似ているが、大きな違いは畳を敷き詰めている点である。和室という様式を残すことは難しくても、靴を履かない文化のためには、畳は必要不可欠だと考えた。スリッパも不要で、裸足で歩けるのなら、日本人にとっては畳が一番快適なのだと理解してもらえると思う。新しくまちをつくる我々が、東京に足りない部分をどうやって強化し、東京というものをよりおもしろく、日本というものをよりアピールするにはどうしたら良いのかを考え、それに形を与えていくのが我々の務めだと考えている。

リレートーク4

市川

今回のテーマである「東京のアイデンティティ:時間の連続性と創造力がもたらす東京」にたどり着いた背景は、昨年のICFセッションに遡る。昨年は2035年の東京をテーマに、今後15~20年の間に、テクノロジーの進化や価値観の変化がもたらすであろう未来の東京の姿を描いた。その際、未来の東京は「Sophisticated and something edgy」、要するに、洗練されているが、同時に尖っていなければだめだと結論づけた。これが今年のテーマの発端である。では、尖った東京というのは何なのか。冒頭で紹介されたように、東京というのは急速に発展し、世界最大の都市圏へと変貌をとげた。その原点にあるのが、260年続いた江戸時代である。

現在東京では、様々なエリアで開発が行われており、各エリアに大手のデベロッパーがついている。プレセミナーで対象としたエリアは、大手町・丸の内・有楽町(以下、大丸有)、日本橋、広域渋谷圏、六本木・虎ノ門の4つのエリアである。

市川 宏雄

大丸有エリアの丸の内仲通りは、以前は典型的なオフィス街で、夜間や週末になると人気がなく、味気ないところだったが、20年経ち大きく様変わりした。現在では、歩行者天国が行われるほか、様々な仕掛けができている。ここは日で最初にエリアマネジメントを導入した地区だが、こうしたエリアマネジメント活動や「東京のしゃれた街並みづくり推進条例」の創設などによって、まちを魅力的に変えてきた。日本の名だたる大企業の本社が居を構えている大丸有地区は、エリアマネジメント活動を通じて、かつてのオフィス街から変貌を遂げ、これからの東京の大きな核になっていくエリアである。三菱地所は、当地区を「人、企業が可能性を感じ、進化できるまち」にすることを目指している。

日本橋エリアは江戸時代、経済、金融、商業、物流、そして文化の中心だった。当時の町人のまちというのは面積にして2割程しかなく、そこに人口の半分以上が密集していた。いまで言う複合機能が全てあったわけで、人が住まいながら商いもしていた、それが日本橋である。このような歴史的な礎があるところで開発を行うことが、三井不動産の特徴である。コレドの裏側が江戸のまち並みになっていたり、近代的なまちづくりのなかで神社を復活させるなど、かなり大胆な計画を推進している。具体的なテーマとしては、地域共生や新しい商業づくり、水辺再生、そして江戸商人の粋な精神の継承などが挙げられる。将来的に日本橋上空の首都高が取り外されれば、さらに多くの人が集まってくるだろう。日本橋の特性は、多様性、挑戦と革新、そして人の繋がりだ。

渋谷は、かつて江戸では郊外であったが、今では都心の一角である。ここは、そもそも1934年に東横線が通ったことで生まれたターミナルのまちだ。このまちが変わるきっかけとなったのが1964年の東京オリンピックである。このときにNHKが丸の内から渋谷に移転し、情報産業が集積することとなった。今では渋谷は単なる沿線の駅ではなく、世界中から人が集まる場所となった。カウントダウンには10万人が集まり、スクランブル交差点や「109」ビルの前は世界に知られる渋谷の象徴となった。こういう変化に合わせまちを変えていこうと計画が起きており、今後約10年間で新しい建物が6棟建ち、駅一帯が変わる。ローカルなターミナルだった渋谷のまちが今や世界に飛躍しようとしている。また、渋谷駅から半径2.5キロの範囲に、代官山や表参道、原宿、青山などがあり、これが渋谷を核とした広域渋谷圏、いわゆる「グレーター渋谷」という概念である。

最後に森ビルが開発を進める虎ノ門・六本木エリアだが、前述のとおり、東京の大きな資源は江戸時代に築かれたまちである。当エリアには江戸末期、上屋敷があふれ区画が非常に大きかった。それが明治時代にさまざまな開発が始まり、変わっていった。今、またこれを生かしながらまちづくりをしている。武家の住居であった本エリアは、町人のまちである日本橋とは全く違う。そのため、開発手法も異なっている。森ビルの開発では、Vertical Garden City(垂直緑園都市)というコンセプトのもと上下にまちを伸ばし、狭隘な場所を緑に変え、文化を通じてまちを豊かにしてきた。本エリアは日本橋、丸の内とグレーター渋谷の間に位置しており、上手くいけば異なる開発エリアがつながっていくことになる。先ほどの伊藤先生の説明にあったように、東京は島嶼化しているが、この島嶼化した各エリアが今後どうつながっていくか。これが東京のポイントとなるだろう。

特別講演

アトキンソン

日本政府が観光戦略に力を入れている最大の理由は人口減少問題である。世界各国の生産年齢人口の将来予測を見てみると、日本は2015年から2060年までの間に3,264万人減ると予測されている。イギリスの労働人口が3,211万人なので、世界第5位の経済を支える総労働人口より多い人口が、日本から消失していくこととなる。そこで、外国人を呼び、日本人のかわりに経済に貢献してもらおうという発想である。観光産業は、世界のGDPの10%を占め、今や世界第3の基幹産業になっている。2013年に1,000万人強だった訪日外国人は、2017年には2,900万人まで増え、国際観光収入ランキングでは、日本は5年程前の26位から、去年世界10位にまで飛躍している。かつて1兆円だった外貨は、今年には5兆2,000億まで増えている。なぜ、このような変化が起きたかというと、現実性、客観性が強化されたからであると考えている。

通常、人が旅行する動機は、会いたい人や、行きたい場所、体験したいもの、食べたいもの、飲みたいもの、見たいものがあるからである。世界の観光客にとり一番大事なのは多様性や、自然、気候、文化、そして食事などだ。茶道はすばらしい日本の文化で、私も親しんでいるが、1億2,700万人の総人口のうち、日本人の茶道人口は300万人だ。日本人でさえさほど興味がないのに、外国人にそればかり発信するのは、客観性、現実性が欠けていると言える。訪日観光で、最も体験したいこととして挙げられる日本食だが、選択率が高いのは初訪日の時であり、2度目の訪日時には大きく下がる。日本では常に外国人に積極的に和食を発信しているが、むしろ東京で体験できる多様な食を魅力として打ち出さなくてはいけない。

また、訪れた理由だけでなく、訪れない人はなぜ来ないのかという理由を分析することも重要である。観光戦略の最大の秘訣は、ブランディングや発信、アドバタイジングやゆるキャラではなく、調査分析によって、いろいろな問題点を吸い上げ、一つ一つ地道に解決することである。これまでは、日本の精神性や日本文化の素晴らしさを海外にアピールし理解してもらうというアプローチが盛んだったが、観光戦略においては、消費してもらうことが一義的な目的であり、精神性や歴史、文化というのは、それを実現するための方法にすぎない。一番問題なのは価値と付加価値の考え方だ。例えば皇居であれ、増上寺であれ、存在自体の価値はある。だがそこにお金を落としてもらうには消費に値する付加価値の創出が不可欠である。即ち、カスタマー・エクスペリエンスとしての高い付加価値である。

デービッド・アトキンソン

京都の二条城では、アクティビティや観光案内版、休憩場所などの地道な整備を進めた結果、大阪万博が開催された47年前以来の最多の入場者数を更新した。これまでは美しい日本庭園を愛でる人が少なかったのだが、庭園で朝粥御膳を用意したところ非常に人気がでた。御殿には興味がなくとも、外界から隔絶された日本庭園の中にある歴史的建造物の中で、朝食をとりながら2時間ぐらい穏やかな時間を過ごすのに、人々は3,000円支払ってくれるのだ。いろいろな問題点に応じて、きちんと整備することで、場所や体験自体の素晴らしさは高まっていく。

最近招かれた会議のひとつに、上野ナイトパーク構想会議がある。上野を文化のまちとして世界にアピールするという構想である。構想自体は良いと思うが、問題は日本人でないとコンサートチケットの購入すら困難な点だ。文化を発信しようとしても、現地の博物館、美術館でその所蔵品ひとつひとつの良さが伝わるような整備や、多言語対応がされていないのなら意味はない。また、上野の文化施設にはカフェも少ない。座る場所を用意し、来場者が長時間滞在するように整備することで、体験そのものの満足度を高めることが重要である。要するに地道な観光整備、設備投資をすることが、東京を観光都市へと変貌させる秘訣であると思う。キャッチフレーズだけでは観光都市にはならない。カスタマー・エクスペリエンスの質が重要なのだ。東京には観光資源は沢山あるので、それらを整備することによって国内外両方の視点からみて魅力的な街が作られるのだと思う。

パネルディスカッション

竹中

各パネリストの方々の講演内容を踏まえて、後半のパネルディスカッションでは、東京は究極的にはどうしたら良いのかについて議論していきたい。まず、本日発表された世界の都市総合力ランキング(GPCI)では、東京は文化・交流がやや弱いという結果であった。インバウンド観光客数は増えているものの、それでも文化・交流が弱い。GPCIからみた東京の強みと弱みを、GPCI主査の市川先生より解説して頂きたい。

市川

GPCIでは、対象都市を6つの都市機能で評価しているが、文化・交流分野では、総合ランキング1位と2位のロンドン、ニューヨークと3位の東京の間には大きな差がある。GPCIの指標の中に、「歴史・伝統への接触機会」があるが、地震や戦争の影響もあり、東京にはパリや京都ほどの伝統的資源が残っていない。そのため、観光客を惹きつけるには、違った資源や整備が重要になる。その上で東京のアイデンティティ、東京らしさをつくる必要がある。花の都パリとか、霧の街ロンドン、ミュージカルのニューヨークのような代名詞になるユニークさが東京にはない。文化施設や文化資源の多くは公的セクターに属しているが、世界では様々な公的施設がオープンにされ、運営の民間委託も多い。日本もそれに倣えば、先ほど指摘された問題点のいくつかは解決するかもしれない。

竹中

博多港には300以上ものクルーズシップが来港するが、日本の港はナポリ港のようにカフェがあふれる洒落た港にできない。なぜなら日本の港は、貨物を扱う場所として法律が定められているため、カフェなどをつくれない仕組みになっている。こうした議論をきちんと積み重ねていかなくてはならない。

さて、伊藤先生は先ほど、都市の島嶼化と群島をつなぐ仕組みにアイデンティティ形成のきっかけがあるのではないかと話されていた。歴史的背景を踏まえた上で、東京のアイデンティティを一体どのようにつくっていったらよいのか、ご意見を伺いたい。

伊藤

都市は一度島になり、また均されるということを繰り返していると思う。例えば、京都はかつて平安京という巨大な古代都市がつくられたのだが、中世になると上京と下京という2つの都市になった。それらはさながら平安京に浮かぶ島のようだった。その2つを室町通りという道がつなぎ、その道がその後の京都の軸になっていった。東京には、日本橋や銀座には軸があるが、それ以外の場所にはそういう軸がなく、無個性な道が広がっている。私は東京が島状になっている今こそがチャンスだと思っている。東京は江戸城という島から始まり、まちがだんだんと拡大し、今はいろいろなところに群島ができた。これらをつないでいくことで、多分世界に類をみないアイデンティティが形成されると思う。

竹中

黒田氏は、実はいろいろなところに歴史が隠れているのだと紹介された。確かに隠れているものを見つけるのはすごくおもしろい。私が1つ残念なのは、東京の地名が昔の面影を宿していないことだ。昔の地名を復活させれば、1つのストーリーを伝えられるのではないかと考えているが、黒田氏はどのようにお考えか。

黒田

都心区については、道路脇に旧町名が表示されているが、ほとんどの人は気付いていないだろう。我々自身が、街の歴史や地元の特性を知った上で、人に伝えられるように努めると同時に、Wi-Fiや案内板なども整備することが必要だと思う。今まで東京というのは経済合理性に基づいて発展してきて、外の目を意識してこなかったように思えるが、今後は外からの観点も意識して考えていくことが重要だ。

竹中

東氏が言及されたように、日本の場合、伝統を「保存する」という考え方が根強い。しかし、それぞれの時代に合わせて、コンテンポラリーな解釈をしていくことで高まる価値というのもあると思う。歌舞伎も時代に合わせて進化させてきたから残っているわけである。今日の日本はどうしても保存という形で捉え、保存されているものに対して文化庁がお金を出すような傾向が非常に強い。本日の発表内容を踏まえて、エッジーのきいた東京をつくるために、何か示唆はありますか。

自分たちが守りたいものは何なのか、変えていくべきものは何なのかを考えるとき、ほかとの差別化ができているかという視点を入れるべきだと思う。東京はニューヨークにはならないし、シンガポールのマリーナベイ・サンズを日本で作っても仕方がない。日本にできることを、他の都市と違う視点で考えていかなければいけない。先ほど、島化する各エリアをつなげていくという話がでたが、差別化を図るのであれば、例えば日本橋は低層にし、六本木はもっとネオンをつけるなど、もう少し各エリアの特徴を強調しても良いのではないか。江戸城再建が実現可能かどうかは別として、そうした考えを持つことが非常に大事で、考えることから何かが起こると思う。

竹中 平蔵

竹中

市川氏は、東京をエッジーのきいたまちにするにはどうしたらいいかと問題提起されたが、東京を観察し続けてきた都市問題の専門家として、どのような答えを持っておられるか。

市川

日本人だけが魅力的に感じる街をつくるのではなく、外から見た際に魅力があるかどうかも重要だと思う。ただ、観光都市としてお金を稼げる都市もいいが、それが東京の個性かというとまた別の話のようにも思う。パリの街は個性を生み出そうとして作られたわけではなく、治安向上や市民の暴動抑制、衛生改善などを目的にまちづくりをおこなった結果だ。その成果が今日のまちの財産となっている。このように、おそらくある時期に何かの目的でまちをつくると、それが後からいい結果を生むのではないかと感じている。我々が東京ひいては日本の伝統や歴史を探し、復活させようとする中で、海外の人から異なる視点のヒントをもらうといいだろう。

竹中

街を一枚のポスターで表現しようとしたとき、例えばパリであればエッフェル塔やセーヌ川が描かれるだろう。ニューヨークの場合は自由の女神で、これは独立と自由の精神をあらわしている。各都市でストーリー性があるわけだが、今の東京を体現するものはなんだろうか。アトキンソン氏のご意見を伺いたい。

アトキンソン

ニューヨークの場合、1980年代にブロードウェイが流行していたかというと、ご存じのようにあの地域は非常に危険で誰も近づかなかった。歴代の市長の努力により、治安が改善され、まちが整備されて今のような姿になった。同様にロンドンも、昔からいまのようなまちだったかというと全く違う。やはりずっと整備をしてきた結果、今日の姿になっている。ロンドンと言えばビッグベンだが、それがあるから人が訪れるのかというとそうではない。エッフェル塔があるからパリを訪れるのかと言えば、ほとんどの場合それも違うだろう。まちを象徴するものは、ないよりはあったほうがいいかもしれないが、あらゆる都市に備わっているわけではない。もう1つパリの話をすると、実はフランスの観光戦略は非常におもしろくて、世界で最も首都に訪れる人の比率が低い国だ。つまりフランスを訪れる観光客の多くは、パリではなく地方を旅している。では、フランスの地方にこれだという特性があるかというと、そうではない。しかしフランスの場合は、どこでもワインがおいしく、ビーチもスキー場もある、と様々な体験が揃っているのだ。ロンドンもウエスト・エンドの劇場街が突出しているが、そうなった理由のひとつは、チケットブースの存在だ。そこに行けば、その日ロンドン市内で催される全てのコンサートや劇場情報が入手できるうえ、チケット購入もできるのだ。

私は京都に住んでいるが、京都の場合は、ほとんどバーチャルの世界になってしまった。空襲の被害にも合わず、未だに神社、仏閣はあるものの、まち並みがあたかも全部消失してしまったかのように感じる。年末年始に行くと門松は1つもでていない。1200年の文化を誇る京都人は、京都文化を何1つ守っていない。その一方で、外国人訪問者に対しては、京都文化を尊重せよ、と言うのはいささか勝手が過ぎる。外国人観光客から日本そして東京のアイデンティティについて質問されたり、色々と指摘されることで、まちは強くなり、アイデンティティも次第に明確化すると思う。前述のとおり、日本人も意外に文化財やまちの歴史を知らない。和室を知らない日本人に、外国人からの質問を通じて再発見してもらいたいと思う。東京のアイデンティティは何なのかを考える前に、日本人であることにアイデンティティを持っているのかどうかが大事だ。

竹中

GPCIでも、インバウンド観光客増加が確認される一方、日本に住む外国人、留学生数は非常に低く、それが東京のランクに影響している。インバウンドの話は、実は小泉内閣のときに私が問題提起して、そのときは一蹴された。日本にとって重要なのは自動車産業や鉄鋼産業で、インバウンドには注力すべきでないと言われたところを粘り、当時の福田官房長官が、小さな研究会を立ち上げるに至った。これがビジット・ジャパン・キャンペーンの始まりだった。やがて福田さんが総理大臣に就任した際、観光立国基本法を成立し、当時まだ500から600万人だった訪日客を1,000万人まで増やすという目標を掲げた。それが今や2,800万人だ。おそらくその背景には、アトキンソン氏がおっしゃったような地道な努力と、実は円安やビザ発給の自由化などがあると思うが、やはりひとつひとつの積み重ねが重要だ。

東京と聞いて思い浮かべるイメージとは?

東京のアイデンティティについては引き続き議論を深めなければいけないが、私がすごいなと思うのは、19世紀末の人口統計でみると、江戸は100万都市だったのだ。当時のロンドンやパリはその半分ほどの規模で、ニューヨークの人口は3万程度だ。そこから今日までの長い間、この地域に更に多くの人が移り住み、色々なものをまちに生み出してきた。しかし、私たちがそのことを忘れかけているうえ、ましてやそれを海外に発信するのは別の努力を要する。日本の大学には、いわゆる観光学部というのが非常に少なく、十数年前に初めて国立大学に観光学部がつくられた。そうした場所で少しずつ統計的にまちや人を分析し、明らかになったことをもとに、ようやく問題が解決され始めている。よいところを伸ばしつつ、問題点を解決していくという当たり前のアプローチが今後の東京についても必要で、そこからさらに将来のエッジーな東京の姿が見えてくるのではないだろうか。