パートナー&アソシエイト・ディレクター
2021年11月25日(木)に開催された、イノベーティブ・シティ・フォーラム2021は、「距離と密度の価値の再定義」というサブテーマをもとに、COVID-19の流行がもたらす変化、特に都市における距離や密度が生み出す価値がどのように再定義されるのかを考え、ポストコロナの時代の都市の姿に関して、建築・都市、サイエンス、アートなど幅広い視点で議論を行った。
歴史を振り返ると、都市はさまざまなパンデミックを経験しており、都市構造やそこに暮らす人の営みに変化をもたらしてきた。例えば、5千万人もの方が亡くなったといわれているスペイン風邪が都市計画に与えた影響は大きく、近代都市計画や用途地域の概念の誕生、都市の衛生環境の改善、緑地の設置に加え、建築物の室内の採光確保など、今では普通のことがスペイン風邪の経験から生まれている。また同時期に、ラジオや雑誌、新聞といったマスメディアが普及し、テレフォンショッピングといった電話による買い物が広まった。家にいながらも、広告をみて電話で買い物をし、移動するときは自家用車を用いて余暇活動を楽しむといった流れができた。
こうした流れは、パンデミックによって突如起こったものではなく、それ以前からあったトレンドが、パンデミックを契機に加速する、あるいは再注目されるようなかたちで現れている。スペイン風邪でいえば、アメリカにおける余暇活動のための自家用車の普及、あるいは家の中でじっくりと楽しめる蓄音機や小説というメディアフォーマットの流行が挙げられる。日本においても、大正デモクラシーのような動きは一度活発化し落ち着いた後、スペイン風邪を契機に、特に庶民層の中で起こったという歴史がある。そして現在、COVID-19の流行によって、都市を取り巻くテクノロジーの進化という面において、スペイン風邪の時とまさに同じようなことが起こっている。
COVID-19より前に遡ると、米TIME誌は2006年の「Person of the Year」に「You(あなた)」を選定するなど、一人一人の個人を大事にする社会の流れができてきた。さらに、我々一人一人がポケットに入れられるコンピューター端末を持つようになった。最近ではFacebook社がMetaに改名したように、メタバースというものが注目されている。このように、21世紀に入ってから人類は、従来の中央集権型の社会から分散型のハイパーコネクティビティを前提とする社会に移行し、シェアリングエコノミーや評価経済といった経済空間が生まれてきた。
都市とデジタルとの関係性において重要なのは、これまではリアルとデジタルは相互に行き来する関係だったのが、今やデジタルにリアルが包含されてきているという点であり、それに違和感を覚えない点が人間の面白いところだ。そのような地殻変動が起きて、その後にCOVID-19の流行という出来事があったと考えた方が良い。そのようなことを踏まえ、「都市の未来」がどうなるのかを、登壇者が示すキーワードとともに考えたい。
データ、自然、あらゆるものが接続、融合されていく中で、「Commons」という共生意識が重要であり、単に共有するだけでなく、全体という意識のなかで寄り添い合い、調和していくというあり方が都市に必要になるだろう。
都市の未来像を考える上で注目したいのは、豊かさの価値観や地域に求められるものが変わってきている点だ。社会は成長からリスク共存という前提になり、資源も有限である中で価値を生み出さなければいけなくなった。そのような中で、豊かさの価値観の基準として、何かを所有するよりも、むしろ体験や経験をシェアすることの重要度が増している。都市における働き方でも、高層ビルの大企業で勤め上げるよりも、より小さな複数の選択肢をもっていることの方が、働き方・暮らし方の豊かさにつながると考えている。自らの資産がグローバル経済によって不可抗力的に変動する社会で、確かな個人の資産というのはお金ではなく、人とのつながりやコミュニティであり、そうしたソーシャルキャピタルが重要になっていくのではないか。
地域に求められるものにも変化が起きている。新しいデパートやビルを建てるよりも、既にそこにあるもの、人、紡がれてきた歴史に、より多くの人が魅力を感じるようになってきている。私は築百年の古民家を空き家バンクで借りて月の半分生活をしているが、東京のマンションにはない余白があることに豊かさを感じる。このような移住・二拠点居住という暮らし方は、シェアリングエコノミーが広がることによって、あらゆる人がどこでもシームレスに行える時代がきていると思っている。
「Harmonizing Commons」というキーワードに戻ると、これまで近代都市は企業や行政が主導してきており、市民はそのサービスを受ける消費者であるという感覚が抜けなかったと思う。東日本大震災が起きてそのようなサービスやインフラが停止したとき、そうした消費者という立場の脆弱さを痛感した。持続可能な都市をつくるためには、いかに市民が参画できるプラットフォームや機会を創出していくかが重要になると考える。
一方で、市民参画が起こりづらい理由もある。家族や会社の形態が変化して、ソーシャルキャピタルがつくりにくくなっている点だ。昔と比べて生活における共同の必然性がなくなり、お金さえあれば一人で生きていける時代になったという背景もある。しかし何よりも、お客様(消費者)市民という感覚が、シビックプライドの育成を阻害し、市民参画を妨げていると考える。
では、どうやってCommons的な社会をつくっていけるのか。鍵となるのは、いかに共生意識を育むかという点だ。資本主義社会における都市では、どうしても個人が前提で、自分と他者というのは基本的に切り離された存在の中で動いているが、実際はそうではなく、昔から日本にあった東洋的な思想、「私とあなたは既につながっている」という、全体性を意識として持つことが、共生意識を育む上で重要なのではないかと考えている。
量子力学が出てきたのがちょうど今から一世紀ほど前になるが、現代の私たちも、個人の所属やアイデンティティが量子化され色々な場所に波のように存在する状態にあるといえる。例えば、リモートワークの普及は、オフィスに身体を運ばなくても出席や出勤となることなど、自分の身体を動かさずに、別の場所に所属できる状態を、現代の社会は認めなくてはならなくなった。
そして、これをネガティブなことではなく、選択肢の広がりというポジティブなところにどう上手くつなげていけるのかが課題になる。さらにいうと、もの・場所・身体性がもつ価値で考えたときに、「その価値はどの場所にあるのだろうか」という疑問が今からの課題になるのではないか。
COVID-19の蔓延は都市にとって“game changer”(都市の動向を大きく変える出来事)であったと思う。多くの先進国において、このパンデミック前の数十年間は、経済活動が集中していた大都市が勝者であり、その周辺にある中規模都市・農村部との間で大きな二極化が起こっていた。その結果、アメリカやヨーロッパなど、先進国の多くの地域・コミュニティで、大都市優遇の体制に反発し、反体制政党の出現が起こった。こうした中で、COVID-19の出現は大きな変化につながると考えられていた。COVID-19はまず何よりも大都市を直撃し、ロックダウンに追い込んだ。リモートワークの普及とともに、多くの人々の活動拠点が中規模都市、地方に移行し、今度はそのようなエリアが勝者とみなされていた。果たしてそれは事実なのだろうか。
COVID-19は、3つの大きな変革をもたらしたとされている。まず1つ目は、“Social Scaring”、すなわち感染するのではないかという心理学的な恐怖を人々が感じるようになったことだ。これは長期にわたるロックダウンと自宅隔離による心理的な影響でもある。2つ目は、物理的な環境の変化であり、ソーシャルディスタンスを保たなければならなくなったことである。3つ目が、おそらく最も重要であるが、一夜にして急激に、強制的にロックダウンを経験させられたということ。我々が対応するのに何十年もかかると予期されていた変化が、急激に起こったことだ。こうした変化によって、パンデミックは我々の働き方を変えてしまった。オフィスで働くのではなく、リモートでテレワークをするようになり、買い物の仕方も変わった。Eコマースはもともとあったが、2020年3月以降はおおいに加速した。仕事の打ち合わせもオンライン化され、東京都心に集まるのではなく、リモートで会議が行われるようになった。それが都市に対してどう影響を及ぼすのかということを考えてみたい。
2020年のイギリスのある都市では、オンラインショッピングの激増により、「小売業の大災害」(“Retail apocalypse”)と呼ばれる現象が発生、あるいは加速した。街の中心部にある小売店舗の多くはパンデミックの結果、店を畳んでしまい、今は再開していない。また、オフィスからワーカーが減り、3分の1から半分程度しか戻ってきていない。都心部への買い物客が減り、レジャー、劇場、映画館、レストラン、スポーツなどの需要が低下した。これらをまとめると、時間がかかると思われていた変化を加速させ、都市とその周辺との関係だけでなく、都市の内部構成をも変えようとしている、あるいは変えようとする圧力が都市に生じていることが分かる。都市におけるマクロ地理学が変わり、そしてミクロ地理学もまた変わったのだ。
都市のマクロ地理学という観点からどうなるか。パンデミックによって、経済活動はほぼどこでも起こるようになるという考え方が広まっている。東京や大阪、神戸、名古屋といった日本の大都市、あるいは、パリに集中していた経済活動が逆転し、パリやフランスのどこかにオフィスを持たなければならないという圧力にとらわれず、アルプスに住み、働くことを決断する人が出てくるかもしれないのだ。
では、世界の多くの地域で、そうした動きがあるのかというと、実際にはそのようなことは起こっていない。事実、ニューヨークのような都市は、一時的には他のエリアに人口を奪われたが、それが戻ってきており、活況を呈しているようだ。大都市からの離脱が盛んだった当初は、その恩恵を受けた地域も一部あったが、多くの地域が恩恵を受けたわけではない。小さな町や農村で、実際にリモートワーカーが流入したのはごくわずかである。パンデミック以前よりある、大都市と衰退する小さな町や地方との二極化は今後も続くだろう。
一方で、都市の内部、ミクロな視点での変化にも注目したい。都心部でのオフィスや商業施設の利用が減るということは、不動産の供給がより増えることでもあるので、短期的には都心部での不動産の利用の仕方が変化するかもしれない。都心の状況は回復しているが、そのスピードは遅い。以前のように100%オフィスで仕事をするのではなく、週5日のうち2、3日会社で仕事をするハイブリッドワーキングの傾向が強まるかもしれない。そうなれば、中心部のスペースやオフィスの利用への圧力は弱まり、中期的には都心部の不動産価格の下落傾向は続くかもしれない。それがリバウンドしないということでは必ずしもないが、新しい考え方や使い方をする良い機会が与えられているということであり、都心が元の状態に戻るには時間がかかるだろう。
ここで、新しい考え方が生まれている。新しい創造的な都市や新しい住居用途をつくったり、クリエイティブな層をもっと呼び込んだり、あるいは開かれた都市を目指すというような、新しいトレンドが生まれつつある。パリで実施されたカルロス・モレノ教授による15分都市は、市民が必要とするサービスのほとんどに15分以内でアクセスできるようにするもので、よりレジャー性の高い都市を目指している。
ここで強調したいのは、ミクロ地理学は、短期的に変化するということだ。都心部と周辺の郊外とのバランスは変化するが、それは都心部の死を意味するものではない。都心は過去にも危機的な状況に陥ったことがあるが、今回も時間が経てばまた立ち直るだろう。多くの都市にとって必要なのは、都心の使い方や考え方を見直すことであり、この点ではさまざまな戦略が採られている。より大胆に変革を進めていき、待つことなく迅速に対策を講じ、自らを改革し、よりダイナミックになり、再び速く成長するような都市がより良い立ち位置にいると考えている。
私もポセ氏と似たような考え方を従来からしている。いわゆる大都市圏を中心に「都心」の役割が業務集積地というよりは文化資本集積地、つまりそこで人々が文化を生み、育む、都市市民にとって「晴れの場」として存在する空間が生まれる。その周辺に、「ニューエッジシティ」という一般市民の住宅街があり、さらに郊外型の「田園都市」のような存在が大都市の外側にできる、このような未来像を考えている。さて、皆さんからも説明を頂いた都市の未来像だが、だいたい何年後くらいの都市の未来像なのかをお伺いしたい。
既に多くの都市で変革が起こっていると考えている。ヨーロッパのいくつかの都市は変革の最前線にある。パリはその先頭に立っているし、ミラノ、フランクフルト、ミュンヘン、コペンハーゲンでも、すでに都市のあり方そのものを変えるような施策が取られている。葉村氏が述べた文化集積都市という概念は既に実施され、よりアクセスしやすく、多くのオープンスペースを市民に提供する都市は既に実現されている。そうした都市はイニシアティブを取るだけでなく、新しい機会をつかむことができるだろう。
例えば、オフィスや小売店のスペースの需要が減少することで、よりダイナミックで新しいグループ、よりクリエイティブなグループが都心にやってくる機会もあるし、そうしたグループは、将来の都市の変革とダイナミズムの種を撒く存在であることは、過去の都市の変革からもわかるだろう。これはチャンスである。ここで、そのような変革がいつ起こるのかという疑問が生じるが、それは、スペースの使い方がどれだけ早く変化し、都市の意思決定者がどれだけ早くその変化を受け入れ、適切に素早く行動するかに大きく依存すると思われる。車中心の、人が集まらない、感染の恐れがある都市であり続けると、リスクも取らなくなり、中長期的には得るものが少なくなってしまうのだ。
例えば2024年くらいまでの近い将来の時間軸で考えると、ほぼ全ての都市でそういう動きが出てくると思う。一方で、先ほどの「Harmonizing Commons」や、人が「量子化」していくという流れの中で、本当にクリエイティブな層が都心に集まってくるかというと、もしかしたら違うのかもしれない。本当にデジタルにリアルが包摂される時代がくるとすると、都心ではなくても、Slack上で、あるいは大分県の農村部で、アイデアやインスピレーションが生まれるかもしれない。2040年まで先を見据えるとしたら、都市の機能、使い方はどうなるのだろうか。
例えば六本木ヒルズのようなテリトリーが明確な都心の大規模開発は、その床を持つことの価値ではなく、そこで行われるサービスをテリトリーの外にも提供するような、ハードではなくソフトの展開が重要になってくるはずだ。そうしたサービスは特定のエリアに閉じる必然性はなく、田舎でもできる。デベロッパーの枠にとどまらず、生活のプラットフォームプロバイダとして必要なサービスの選択肢を広げざるを得なくなると思う。ポセ氏が触れたマイクロ・マクロ地理学という概念が、今は都市のハード構造における「マイクロ」「マクロ」に閉じてしまっているが、もっとソフトな、ネットワークの中でのマイクロ構造を、いかにマクロな基準骨格に、その瞬間ごとに必要なレイヤーで紐づけていくかが重要になる。それを行いやすいハード構造を提供できるかがデベロッパーの価値になると思う。「マクロ」「ミクロ」は常に流動しており、必要なかたちで呼び出されるようになっていかざるを得ないだろう。
ポセ氏が述べられた「マイクロ」「マクロ」は旧来型都市の枠組の中のものだが、そのマイクロの在り方は、おそらく人間個々の動きによって変動するし、可変されていくというご指摘だと思う。石山氏はそのような生活を実感されていると思うが、いかがだろうか。
2040年にはかなり状況は変わってきているだろうが、結局は人の感情がどこに集積するかという点に尽きるのではないかと思う。人々がつながりや熱狂を、メタバースに感じるのか、それともリアルに感じるのか、それがどう変容していくかは興味がある。私は渋谷と大分で二拠点生活をしているが、人口が超過密の渋谷よりも、大分にいる方が人とのつながりを感じる。東京の方が人口密度は高いのに、なぜつながりを感じられないのだろうか。地方に限らず、デジタルの方がつながりや熱狂を感じる人もいるかもしれない。2040年に多数派がどこにいるのかが気になるところだ。
情報技術によって、場所やモノの持つ情報を取り出せる量が増えていく中で、それを外に向けて拡張していくか(Extended Experience:その場所に行かなくても体験できる広く薄い拡張経験)、もしくはさらに増幅させていくか(Enhanced Experience:その場所に行くだけではできなかった増幅された経験)、どちら側に情報を拡張するかは大きな方向性の違いだ。暮らしやビジネスにおいて、その都度どちらを選択すべきかの整理が必要で、その感覚を身につけることが必要だろう。
デジタルの体験について、Extendedなのか、Enhancedなのかはすごく大事だ。私が先ほど述べた都市の未来像の構造は、ディストピアだ。中心に大金持ちが住み、色々な贅沢や有名ホテルがある。ホワイトカラーの層はニューエッジシティにいるが、実はその間にもう1つ帯があり、彼らの生活を支えるエッセンシャルワーカーが住まざるを得ない。そうしたエッセンシャルワーカーは都心で楽しい経験を得ることや、あるいは郊外や田舎での多拠点居住をすることは、難しいのではないかと考える。
私の出身地である千葉のニュータウンでは、同じソーシャルクラスの人々が一時期に大量に入居し、現在は高齢化している。こうしたダイバーシティの無さと比較して、ヨーロッパやアメリカの都市においては、ハイエンドエリアの再開発においても、法令で低所得者向けのアフォーダブル・ハウジングを一定量いれなければいけないとする方向に進んでいると思う。都市によっても違うと思うが、そのような社会の仕組みの構築と実装についての背景をポセ氏にお伺いしたい。
おっしゃる通り一つのトレンドがあるわけではなく、都市によって異なる。シュトゥットガルト、あるいはコペンハーゲン、スウェーデンなどでは、新しい開発の多くはミックスユース、もしくはソーシャルハウジングだ。従って、同じ地区でも、同じ建物、同じ開発においても様々な人たちが混ざり合い、ダイバーシティが確保されている。ロンドンやパリの例では、新しい開発で低価格住宅が供給されているものの、そのスペースはかなり限られている。多くの場合、最初はパンデミックや投機のために引っ越すことができなかった不在のオーナーが入居しているのが現状だ。
すなわち、現時点では新しい建物の住民にダイバーシティはなく、そのほとんどが「都市の高級化(Gentrification)」を生み出してしまっている。住宅価格著しい下落にもつながっていない。なぜなら、そこは比較的裕福な所有者によって占拠されており、彼らはセカンドハウス、あるいはサードハウスとするか、もしくは単なる投資用マンションとして使っているだろうからだ。
都市のハードな法制にもまだまだ改善の余地はあることは間違いないと思う。
人間というのは最終的に同じような人たちで物理的に固まってしまうという中で、都市計画という観点でどのように介入し、サステナブル・バリューを担保するかは今後の課題になってくると思う。
私は渋谷の複合施設の住居フロアを借りて、Ciftという拡張家族のコミュニティで共同生活しているが、そのフロアにどのような人を住まわせるかというのはCiftが請け負う形になっている。ひとりひとり家族面談をし、合意したうえで一緒に住み、子育てし、介護をしたりする。住民のソーシャルクラスはバラバラで、様々な人がいる。さらにユニークなのは、別フロアに住んでいるハイクラス世帯の人々が、私たちの共有フロアに入って、コミュニティに参加することもある。分断されていたソーシャルクラスを溶かしていくような暮らしが、そこでは実現している。
突然他人同士が一緒に暮らすのは難しいと思うが、どのように可能にしたのか。
ポイントは価値観の共有にあると思う。「対話と自己変容」というキーワードを大切にして、肩書きやソーシャルクラスに関わらず、まず対話する姿勢を持っているか、その中で自分が変われるという意志を持っているかということを家族面談で見ている。
ソーシャルクラスは目に見えたとしても、人の意識や価値観というものは見えにくいものであった。ところがSNSの登場により、会社の同僚がもっている自分の知らない価値観などを、SNSを通して知れるようになった。つまり、都市を構成する物理的な部分も含め、価値観で結び付くようなコミュニティのあり方が出てきたことが、COVID-19によって分かった気がする。私自身で言えば、会社グループに属する自分、大学教授としての自分、こういう話をしているときの自分それぞれが存在する。量子化していくものが、組み合わさっていく。そういう変化が起こっているのではないか。
今後は、「自己」に対して「集己」(集団的自己)のような意識、社会に貢献する価値観が大事だと思うが、そうはいっても、なかなか自分事にならない物事を利他的になれといっても難しい。そんな中で、自分の身の回りのコミュニティに貢献すると、きちんと自分にもなんらかの恩恵が返ってくるというシステムが見え始めてきた。集団的自己への貢献を体験すること、もしくはそういうシステムが社会に出来てくると、結果的に利他性が価値化される流れができないといけないと思うし、そのきっかけがCOVID-19だったのではないかと思う。
「情けは人のためならず」という言葉があるように、利他は利己のためにというところがあると思う。
それを意識ではなく、技術と制度でやるということが重要だと思う。Ciftはその一例だ。
デジタルがその価値観に影響するところもすごく大きい。2040年の世界はかなりシームレスになり、むしろ「既につながっている」感覚を誰もが持っているのではないか。知らない間に「私」と「あなた」という境界線がデジタルの融合によって溶けていく社会というのが、影響するのではないかと思う。
ポセ氏に伺いたいが、都市において、ソーシャルクラスではなく個々の価値観によってコミュニティを形成し、実際に共同生活をしたり、価値観を共有し合えるような空間形成をしていく動きはヨーロッパあるいはアメリカでもあるのだろうか。
絶対に必要だと思う。ここ数十年、都市で見られる問題の一つは、ソーシャルクラス、人種、年齢によって区分されていることだ。都市の一部分、あるいは郊外に年齢別のコミュニティができている。あらゆる研究でこれは悪い状態とされ、多様性が良いことだとされている。異なる民族、ソーシャルクラス、年齢を集めれば、単に住みやすい都市になるだけではなく、異なる背景をもって考え、より大きな社会・文化・経済のダイナリズムの種を生み出す能力が高まる。これはやらなければならないことだ。
ここで強調したいのが、大都市の都心に大型の建物を建て、高密度化する動き、民間セクターがミックスユースの再開発をするという、主に米国で見られる傾向に私は反対しない。しかし、実際には、意図されたスキームが機能していないのだ。そこで公共セクター、自治体、プランナーの役割が出てくる。コペンハーゲンやストックホルム、ヨーテボリで行われているような住宅組合の設立、ソーシャルハウジングの役割を増やすなど、より大胆な行動が必要だ。そうすれば、真の意味で混ざり合ったコミュニティができ、経済的にダイナミックな都市になるだけでなく、より住みやすく、社会的に統合された都市になるはずだ。
都市というのは「こうなっていくだろう」と、「こうあらなければいけない」という両面があり、ポセ氏は後者に関して公の役割は非常に重要なのではないかと、そして、そのときの都市の密度との関係は相変わらず重要性が高いということだと思う。その一方で、今回のCOVID-19やデジタル化がそこに何らかの変化をもたらすとすれば、「こうあるべき都市」というものを、例え民間であっても、もっと実現しやすくなるのではないかという気もする。このことについて、豊田氏に伺いたい。
私は森ビルと東急をよく比較するが、森ビルの都心型に対し、東急は都心と郊外とリゾートという階層性を持っていて、かつ流通、人流、ケーブルテレビ、カードなどマルチレイヤーで持っている。これはものすごく強いアセットだ。こういう色々な階層に、横に広く薄くマルチレイヤーで持っていて、その間の流動性、それは量子化という話に近くなるが、電子がいかにどこにでも存在できる環境を、狭くてもいいので持ってつくれるかが非常に重要になる気がしている。
そして、そういう拠点づくりをどのようにシステムとして、理論として、ビジネスとしてモデル化していくかという動きが現状はない気がする。各セクターに閉じこもってしまうのではなく、業態を超えてやらなければならない。それに近いものを東急は持っている。森ビルは拠点の強さを持っているから、それをどう郊外に離散化するかという視点をもてば、できることの幅は広がる気がしている。
最後に石山氏に伺いたいのは、都市自体の重要性は変わらず、密度も大事だという流れの中で、「こうあるべき都市」というものに私たち一人ひとりが市民として、どうやって貢献できるのかをお聞きしたい。
やはりこの東京という都市でいかにシビックプライドを持てるかということだと思う。森ビルもそうだが、クオリティの高いビルやスペースを提供するという視点から、むしろそこにいる市民がシビックプライドを持つための環境づくりに、企業や行政がどう支援し、バックアップできるかのほうがむしろ大事になっていくのではないかと思う。