Tokyo Time Machine Projectは日々技術革新が進むVRを用いて、没入感のある都市空間を仮想的に作り上げ、
あたかも本当に時間旅行をしているかのような没入感のある都市体験を作り上げることを目指している。
また、このプロジェクトはVR技術を用いた都市空間表現の可能性を追求することも目的の一つとしている。
第一弾として、東京都中央区銀座四丁目交差点を中心としたエリアにおいて、
「江戸時代(1850年頃)」 / 「明治時代(1910年頃)」 / 「昭和時代(1940年頃)」
の3つの時代を設定し、各時代における建築物や交通インフラ、服装などを、各時代における地図、図版、写真、そして歴史資料等を用いてリサーチを行い、可能な限り忠実にVR化することを試みている。
今回対象としている銀座四丁目交差点を中心としたエリアは江戸時代から現代にかけて、
明治の始めの 「銀座大火」、大正時代の「関東大震災」、昭和の戦争の被害
という3つの出来事を受けて、その形態を3度大きく変えている。
このVRではそれぞれの出来事の前に、この地域がどのような姿をしていたのかを再現すべく、変化する直前の、
江戸時代末期(1850年頃)、明治時代末期(1910年頃)、戦争による被害を受ける前の昭和初期(1940年頃)を
VRの再現時点として選定している。
年月日 | 出来事 |
---|---|
1608年3月24日 | 徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸(現在の東京)に幕府が樹立される。 |
1612年 | 徳川家康が駿府(現在の静岡県)に存在していた銀貨鋳造所を現在の中央区銀座2丁目の地域に移設。この時代、銀貨鋳造を担う組織は「銀座」、金貨鋳造を担う組織は「金座」と呼ばれており、銀貨鋳造所が設置されたこの地域一帯は以後、通称として「銀座」と呼ばれるようになる。 |
江戸期の繁栄 | 「銀座」が設置されて以降、この地域一帯は銀貨鋳造に関わる職人をはじめとした多くの職人等が集まり、そして日本橋を起点とする東海道の一部でもあったことから、多くの商店が集まり繁盛していった。尾張町(現在の銀座5丁目周辺)は特に賑わいを見せており、「恵比須屋」、「亀屋」、「布袋屋」といった呉服店が軒を連ねており、その繁盛ぶりは日本橋の三井越後屋に匹敵すると言われた程だった。 また、この地域には能役者や、芸者も居を構えた他、日本画狩野派の「狩野画塾」が開かれる等、文化や芸術に関わる者も多く住む地域でもあった。 |
1800年 | この地の「銀座」の役人による上納金の滞納などの不正行為等が発覚したことを機に、銀貨鋳造所としての「銀座」は蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転させられる。以後この地域一帯は徐々に廃れていくこととなる。 |
1868年10月23日 | 「慶応4年」を「明治元年」とし、天皇一代に元号一つと定めた詔である「一世一元の詔」が発布され、明治時代が幕をあける。 |
1872年4月3日 (旧暦明治5年2月26日) |
銀座大火の発生 旧会津藩中屋敷(現在の皇居外苑)を火元に大火が発生。東京の中心地である、現在の丸の内、築地、銀座一帯がこれにより焼失した。 これを契機に、旧暦明治5年3月2日に当時の東京府が、道路幅の拡大を主とした街路整備計画、煉瓦を主な材料とした不燃性の洋風家屋の建築、を2つの柱とした「銀座煉瓦街」の建設を告げる府令を発する。 |
明治期の繁栄 | 銀座煉瓦街の建設計画が始動した明治5年は、横浜と新橋をつなぐ日本初の鉄道が開通した年でもあった。新しく出来た新橋駅の駅前という立地にあった銀座は、洋食店やパン屋、鞄屋、時計店、洋服等、西欧からの輸入品や新しい物品を扱う商店が数多く軒を連ねた。また、新聞社も数多く立地しており、1880年代に東京で開業していた100社の新聞社、雑誌社の内、その半数以上が銀座周辺に集まっていた。明治後半ごろには勸工場(かんこうば)と呼ばれる、現代でいう百貨店、商業ビルのようなものも立地し始めた。こうして銀座にはさらに多くの人々が集まるようになった。 |
1923年9月10日 | 関東大震災の発生 東京府(現在の東京都)、神奈川県を中心に隣接県にまで甚大な被害をもたらした大地震が発生した。銀座煉瓦街もこの地震によって発生した火災により焼失してしまう。 |
大正から昭和初期にかけての繁栄 | 関東大震災後、東京市(現在の東京都23区)は震災復興計画を策定し、銀座周辺地域においては、晴海通りの拡幅、昭和通りの新設がなされた他、銀座通り沿道の商店もそれぞれ精力的に復興に取り組むことで、賑わいを取り戻していった。この復興期では、様々なデパートがこの地域に進出をはじめ、1924年に松坂屋、1925年に松屋、そして1930年に三越が開店している。現在も銀座のシンボルとして認知される和光の時計塔も1932年に完成している。 デパートの進出により、新たな顧客層を引き入れた銀座は1929年には不動産賃貸額が日本橋を抜き全国1位となるなど、ますます賑わいをみせることとなった。 |
1945年 | 戦争による被害 1945年1月27日、米軍の爆撃機B29により、日比谷、有楽町、銀座等の都心部一帯に爆弾が投下される「銀座空襲」が起きる。投下された爆弾の一つは銀座四丁目交差点に落下し、地下鉄の出入り口が破壊され、近くに立地する鳩居堂建物が炎上するほか、周辺の建物にも被害が生じた。その後同じ年の3月、5月にも空襲を受け、銀座のほぼ全域が焼けてしまう。 |
戦後復興、高度経済成長、 そして現代へ |
戦後米軍によって接収されていた服部時計店や松屋デパートは、サンフランシスコ講和条約翌年の1952年に返還され、本格的な復興が始まる。当時、銀座地域の南側に位置していた三十間堀川が戦災のがれきにより埋め立てられ、水辺を活用した舟運から自動車中心の交通へと変化した。 その後地下鉄工事もさらに進み、利用頻度の増した自動車交通の妨げになっていたことも相まって、都電(路面電車)が1967年には姿を消すこととなった。 都電の廃止により、銀座通りは大改修が行われ、電柱や電線が地上から取り除かれ、地下の共同溝に収められた他、都電のレールの敷石に使われていた御影石を転用する形で歩道部の舗装が敷設された。現代でも行われる「歩行者天国」もこの大改修の後、1970年8月に初めて実施されている。 こうした高度経済成長期の発展の後、バブル後の規制緩和等を経て、多くの建物が再開発等で更新されていき、現代の銀座につながっていく。 |
最終更新日:2021年3月25日
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